尾小屋鉱山について


横山家の出資

 尾小屋鉱山は能美郡尾小屋村(小松市尾小屋町)地内にあった。江戸時代の天和2年(1682)ころには金山として稼働していたが、その後、廃山となり、宝永年間(1704ー10)再び金の採掘を始めたが、生産量が少なかったことから、また廃山となった。尾小屋鉱山が脚光をあびるのは明治以降のことで、銅山としてであった。

 明治11年(1878)能美郡金野村字金平に住む橘佐平が、西尾村字尾小屋小字松ケ溝という地で鉱脈の露頭を発見、同11年、山岸三郎兵衛が試掘、ついで同13年、山岸と共同出資者の士族吉田八百松ら7人も試掘を始めたものの資金が乏しく、利益をあげるまでにはいたらなかった。吉田は士族の誼(よしみ)で苟完社(こうかんしゃ)を訪ねた。

 苟完社は横山隆平(旧藩五万石、年寄衆)を代表とする金融会社であった。対応に出た 完社の役員横山隆興(隆平の弟)は吉田への出資に強い感心を持ち、隆平に尾小屋鉱山の検分を奨めた。この後まもなく、隆平は吉田らとともに共同出資者となった。

 明治14年(1882)隆平は本格的に鉱山経営に乗り出し、金鉱区を買収、隆平が社主、隆興が鉱山長となった。このときの負債は二十余万円に達したという。

 他方、鉱山産出の荒銅の販売と融資にあたる円三堂を設立し、横山の鉱区事務所である隆宝館と契約した。円三堂の名称は、横山の旧臣であった第十二銀行支配人の辰巳啓(たつみ・ひらく)・向島幸助・岡部立三郎の三人が、旧主家横山の鉱山事業が円滑に成就するようにとの願いから名づけられたという。

 鉱山はこの後、隆宝館尾小屋鉱山と称された。しかし、経営は芳しくなく、会社設立当初の銅産量は一ヶ月6トンにすぎなかった。鉱長の横山隆興はすでに全財産を投資し、無一文の状態であったという。鉱山は円三堂により抵当権を設定されたと同様の情況のなか、生産量の大きい優良鉱脈の発見に期待した。明治18年、小松町に出張所を置き、隆興みずから指揮をとったが、新鉱脈発見以外に経営の見通しはなかった。

「歓喜に満たされる全山」

 明治19年(1886)待望の新鉱脈が発見された。その結果、「鉱口より運び出される産銅は累々として山の上に山を築き」、「歓喜に満たされた全山の人気は、一挺の鶴嘴に食ひ入」(渡辺霞亭「横山隆興翁」)るようであったといい、「採掘せる粗鉱の含銅は平均百分の四、五」(同上)であったという。年間の産銅は二十余万円、横山本家の負債、円三堂の負債を返済してなお利益が残った。翌明治20年(1887)から事業は順調に進展し、鉱区面積も三十余万坪(90ヘクタール余)となり、さらに富鉱脈数カ所を発見し、産銅は6−7トンから10トンを維持できるようになった。こうして新鉱脈の発見により、明治18年(1885)にはその極に達していた大蔵卿松方正義によるいわゆる松方デフレを克服し、同23年(1890)10月3−4日には、尾小屋鉱山10周年を迎えた。隆平は隆興につぎのような感謝状を贈っている。


尾小屋鉱山創業以来、百難蝟集殆んど困憊時を得ざるの極に瀕する等名状すべからざるの状態、其幾回なりしを数ふべからず、比の時に当り、実に不屈不撓の精神を持って、身心の全力を尽くし、数年一日の如く忍耐と配慮とに拠り、計画其宜しきを得たるにあらざるよりは其難に勝ち、今日鉱業較や安堵の地位に達せしを得べからず、其功労の偉大なるは、永く忘るべからざる所、歓喜の至りに耐へざるなり、今茲に十年季祝典を挙げ、聊か其功を表する為め、文台、硯箱、別紙目録の通り相贈り候也

 明治二十三年十月二日

      隆宝館主 横山隆平

 横山隆興殿


 隆平の率直な喜びを知ることができる。

県下最大の労働争議

 明治28年(1895)には、岐阜の平金鉱山を買収してさらに順調な経営をみたが、同29年8月、大洪水によって鉱山の全施設を流失し、一時、存亡の危機にたった。これはおりからの日清戦争後の好景気な支えられて回復、その後、月生産量は30トンから40トン余となり、32年には濾過池を新設、同32年には、鉱区が100万坪(300ヘクタール)をこえるまでになった。

 同34年には人力選鉱を機械選鉱とし、同36年には山下式吹精練に代わり洋式精練法を採用し、年生産高は1000トンをこえた。

 同37年、岐阜の平金鉱山を合わせて横山鉱山部を創設、同43年(1910)には鉱山部事務所が金沢市大手町9番地にできた。

 日露戦争後は、不況のため一時的に生産量は減ったが、明治43年阿手鉱山の買収にともない、同鉱山が保有していた水力発電により諸施設も電力化し、同44年(1911)には年間生産量2000トンをこえ、大正9年(1920)には2276トンに達した。生産高の増加は、表に見るようにそのまま生産額の上昇に結びつき、最高鉱夫数1700人、山間の町でありながら人口も5000人を数えた。また大正8年には、小松と結ぶ尾小屋鉄道も開通した。

 なお第一次世界大戦後の大正9年(1920)、不況下に友愛会尾小屋支部ができ、待遇改善を要求して400人余がストに入った。11月25日には60人がスト、同11年4月には5日間、また5月、7月にもストが行われ、石川県最大規模の労働争議へと発展した。その原因について「石川県の百年」の著者橋本哲哉氏は「横山鉱業部の労務対策の前近代性・遅れ」にあると指摘している。

 その後、尾小屋鉱山経営は行きづまりをみせ、昭和6年(1931)、ついに横山家は鉱山を手放すにいたった。こうして、尾小屋鉱山の横山家経営時代は終わりを告げ、以後、日本鉱業株式会社、北陸鉱山株式会社と経営母体を変えながら続いたが、昭和46年(1971)12月30日、その長い歴史を閉じることになったのである。

(田中喜男)

「図説 石川県の歴史」より

尾小屋鉱山の銅産出額と坑夫数

年次

銅産出額(円)

坑夫数(人)

明治33年

196,004

412

34年

212,535

496

35年

222,500

474

36年

272,679

615

37年

330,144

805

38年

432,987

793

39年

528,685

917

40年

620,656

785

41年

383,466

1,036

42年

435,188

1,032

43年

519,721

1,020

44年

581,195

1,105

45年

896,508

1,231

大正2年

961,951

1,536

3年

851,199

1,743

4年

1,105,154

1,296

5年

2,134,671

1,466

6年

3,095,600

1,604

7年

1,693,781

1,547

8年

3,453,281

1,594

9年

1,456,919

1,722

10年

1,391,554

1,287

11年

1,169,231

1,118

12年

1,505,348

1,133

13年

1,470,492

1,069

14年

1,271,456

564

15年

1,294,663

1,180

橋本哲哉・林宥一「石川県の百年」による

尾小屋の”鉱山王”と労働者

 小松市から、これ以上ひなびた交通機関はないと思われるような尾小屋鉄道にのり、梯川の支流郷谷川をさかのぼると、終点の尾小屋につく。手取谷の鳥越村とは背中あわせの大倉岳のふもとで、ここに昭和37年まで、日本有数の銅山尾小屋鉱山があった。1880(明治13)年に、旧藩の大身士族の横山隆興が経営に乗り出し、1904(明治37)年には横山鉱業部を設立して、近くの大谷・阿手・倉谷の鉱山を併合し、”北陸の鉱山王” ”横山財閥”の名をほしいいままにした。過去の石川県で最大の地元資本といってよい。しかし、第一次世界大戦の不況の波をまともに受けて経営が悪化、昭和の大恐慌のなかで、横山家は、ついに日本鉱業に山を売る。

 繊維産業にたずさわる女性労働者が大半を占めた県下の労働界で、盛時には2000人を越えたといわれるこの鉱山の労働者は、特筆しなければならない存在だった。総同盟の指導をうけて合理化とたたかった1910(大正9)年、1912(大正11)年・昭和6年の相つぐ尾小屋の争議は、戦前の県下の労働運動を代表するものとして重視される。だが、それも、いまは昔の話。現在の尾小屋は火の消えた過疎の山。ながい歳月に流された鉱毒だけが、いまも生き続ける。尾小屋鉄道も昭和52年にはいって廃止された。

「石川県の歴史散歩」より


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