思い出の中の尾鉄


このHPのお客様から寄せられた、尾鉄の思い出を綴ります。

写真提供:浅嶌周造氏


私にとっては別の意味で、尾小屋鉄道は特別な存在です。私はナローゲージ好きです。中学生当時(昭和48年をイメージしてください。ここが大切)軽便鉄道に興味を持ちはじめましたが、そのときは、井笠鉄道も、九十九里鉄道も、草軽も、頚城鉄道も、、、、すでに全滅状態でした。本で読んで、見たい気持ちはつのる一方です。そんななかで、この時期日本中でたった1つ残っていた<雰囲気を残した鉄道>でした。あそこは。だから、自分が体験できた唯一の軽便鉄道です。ですから特別な存在だったりします。


幼い頃、汽車が大好きだった私は(今でもそうですが)、母方の祖父母の家に遊びに行くと、決まって「尾鉄」(当時、地元の人は尾小屋鉄道のことをこう呼んでいた、と記憶しています)を見に行きました。新小松駅を出て最初に左に大きく曲がるカーブの外側あたりに、今は亡き祖父の畑があったことが懐かしく思い出されます。尾鉄が廃止になったのは、確か私が小学2年の時だったと思います。その年に祖母と弟と3人で、最初で最後の尾鉄に乗りました。ところがその年は、大雪で列車が途中までしかいかず、大変悔しい思いをしたことを思い出します。今でもこのことが心残りで仕方ありません。でもこの「尾小屋鉄道ホームページ」を見て、少しは心が和んだ気がします。ありがとうございます。


 思い出といえば、私は花坂駅で乗車していたのですが、家を出るのが遅くなって、毎朝のように尾鉄と競争でした。花坂駅に登る道が急で、いつも最後にはバテバテになって乗った事をおぼえています。それから花坂駅を出てすぐ急な坂があるのですが、雪が降ったり、凍結したりすると、そこを登れなくて何回もチャレンジしていた記憶があります。他の人の話によると、一度乗客が降りてから登り切り、再び乗客を乗せて走り出した事があったそうです。当然乗客は坂を歩かされたわけです。当時の尾鉄のイメージは、日本一ださくてぼろい汽車というものでした。ですから、廃線が近づいて、鉄道マニアを見かけても、「こんな汽車を遠くから見に来るなんて、なんて物好きなんだろう。」と思ったのは、私だけではありませんでした。それでも今、尾鉄という名前に惹かれるのは、臭い言い方ですが、私にとって青春の1ぺージだったからでしょうか。


Yahooで「尾小屋」と何気なしに検索したところ、このHPと出会い大変懐かしい写真や思い出話を拝見させてもらいました。私は尾小屋で生まれ育ち、中学、高校と18まで尾鉄に乗っていました。いまでも老いた母が一人尾小屋で暮らしています。HPの中でいろいろな方が思い出話を書いていますが、ほとんど記憶があります。花坂周辺で坂を登りきれずに実際に列車から降りて押したこと、キーハンターの撮影があり実際現場で見たこと、競争して追いついたこと等など当時を思い出します。


実は、私の実家が観音下駅の駅舎のあったところに建っているんです。とはいえ、建てたのは81年のことで、当時は更地だったようで実家とは何の縁もゆかりもないのですが(これは少々嘘。後で書きます)幼い頃、一度だけ観音下駅わきの踏切を車でわたった、という記憶がありました。当時はまさかこんなところに住むなんて思っても見なかったのですが、どうしてなかなか、実家の父親の英断で小松市内から観音下駅跡地に引っ越してしまったのでした。当時はまだ完全な農道だったので、現在も残っているホーム(川岸さんのお宅の一角にと込んでますが)はまだその全容が見渡せました。今は砂利を敷き増しているので3分の1ほど隠れてしまっています。

残念ながら私は尾小屋鉄道に乗ったことはありません。なかよし鉄道ならありますが。父親が観音下の出身なのでかなり乗っていたと思うのですが鉄道趣味者ではなかったのでそのころの記録はありません。ただ、観音下駅のホーム跡が現存していますが、ホームに使われている石、というところで実家と尾小屋鉄道にわずかなつながりがあります。観音下には採石場があったのを見られたと思いますが、実はその経営者が実家なんです。今も採石場で働いている(と思うんですが)青木さんという人が昔は尾鉄の運転士をしていたらしくて、何度かその話を小耳に挟んだことと、昔は石を尾鉄で運んだという話をを覚えています。波佐羅〜観音下は、犬の散歩で4,5回ほど歩いた記憶があります。そのころから一部は歩けるかどうか怪しかったのですが、国道の工事で時々迂回路に使われていたようです。

思い出話ばかりで申し訳ありませんので、情報らしきものを。塩原駅は、たしか90年代前半までホーム跡が残っていたと思います。石造りで(観音下と同じ石)おそらくキハ2両が停まるだけの長さでした。国道からよくそのシルエットが見えたものです。沢〜観音下間については、現在進んでいる国道416号線の工事の影響で、線路跡が国道になります。小松よりの自転車道(10年ほど前まで、踏切のための道路用信号がそのまま使われていました)よりも幅が広くなるので、あるいは面影がまったくなくなるかも知れませんが。


懐かしくホームページを拝見いたしました。子供のころよく尾鉄の汽車に乗り祖父母の家に行った思い出がよみがえりました。

今の時代には考えられない尾鉄・・・ダイヤはあって無いような運行ダイヤ。遅れるのは当たり前。現在の鉄道では考えられないことと思います。これは尾鉄ならではのことです。雪が降れば尾小屋まで行かないで、途中の金平でいきなり終了・・・そこから走って祖父母の家に行きました。あのディーゼル音、汽車なのにギアが付いていて・・・なんだか訳のわからない汽車だった思い出があります。冬に実家に帰ろうとすると雪で汽車が動けず観音下で運転士さんの休憩室に一緒にいた記憶があります。(観音下の休憩場所については、冬に観音下から尾小屋まで積雪にて運行出来ないときの仮設休憩場所だと思います)

現在の線路跡地については市街地はほとんど道路になり金平以降についてはまだ少しですが鉄道敷地があるみたいです。怖くて見にいけません・・・尾鉄も社名変更になり現在小松バス・バス事業に主力をおいております。財務内容も良いみたいです。当時鉄道を廃止した時、汽車の運転士はバス運転士になり路線バスに乗務いたしておりました。しかし現在は残っておりません。当時鉄道がいた頃の社員もいまは誰1人としていないと思います。社員ですら前身が尾鉄とも知らないと思います。私の父親が尾小屋鉄道から現在の小松バスに勤務いたしておりましたのでかなり古い方々は知っておりますが当時の方は定年退職されております。


あなたの思い出もお聞かせ下さい。

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