尾鉄廃線跡を歩く4


観音下〜波佐羅(0.7キロ)

 観音下(かながそ)駅には、かろうじてホームが残っていた。しかし、ホームの上には物干台や車がおいてあり、鉄道があったと知らなければ、とてもホームの跡にはみえない。当時の様子とも大違いである。

 観音下を出てすぐに、小さな橋を渡る。石造りの小さな橋が小川をまたいでいるのだが、その橋がなんとも可愛らしい。(写真の「きけん」の看板の辺り)

 さて、しばらくは農道らしい良い道が続いていたのだが、左に大きくカーブした辺りから急に草が険しくなってきた。(写真、右手が線路跡。左手は川)

 ここまで来て引き返すわけにもいかないので、草をかき分けどんどん前に進む。しかし、なんと蜘蛛の巣の多いことか。しかも、田舎の蜘蛛なので大きいのが多くて、昆虫が苦手な私にとっては地獄であった。

 なんとか薮を突破し、田んぼの中の農道にたどりつく。農道になれば、もう楽勝だ。ひたすら歩くだけで、なにも考えることはない。田んぼを抜けると波佐羅の集落はもう目の前である。

波佐羅〜塩原(0.9キロ)

 波佐羅の駅跡とおぼしき場所は更地であった。(後でわかったのだが、集会所になってる場所に駅があり、ポストの辺りがホームだったらしい)駅の跡から更に少し歩くと、二宮金次郎の像があった。「流汗報国」、時代を感じさせる文句が彫刻されていた。ここには、しばらく前まで木造校舎があったようだが、いまでは取り壊されたらしく、二宮金次郎の銅像が淋しく取り残されていた。

 さて、そのまま歩けば塩原駅にたどり着ける筈なのだが、左に大きくカーブしたあたりで道だか薮だかわからない場所に突き当たってしまった。しばらく進んでみたものの、蜘蛛の巣攻撃の前に敢え無く撃沈してしまい、しぶしぶ退散。来た道をのこのこと引き返し、例によって国道ルートのお世話になった。国道を歩き、塩原の集落を抜けた辺りに橋がある。そこを渡って農道をトコトコ歩くと、再び廃線跡にたどりつく。農道と廃線跡が交差する辺りが塩原駅のあった場所なのだが、なにも残っていなかった。ただの田んぼのど真ん中であった。

塩原〜沢(0.5キロ)

 写真の通り、塩原駅は何の跡形もなく消え去っていた。薮で歩いてこられなかった反対方向を望むと、しばらくは行けそうだがやはり薮で行き止まりになっていた。この時、数日後にここが悲劇の舞台になろうとは思いもせず、沢駅を目指した。

 3日後、友人の車で同じ場所を訪れた。沢駅の辺りからこの道を走り、塩原駅の存在も忘れて、そのまま薮の方に進入していったのだ。案の定、薮で農道は行き止まり。仕方なく、田んぼに降りる坂道で方向転換しようとしたところ、見事にスタック。いったん、下まで降りて勢いをつけてバックしようとしたが、下に降りたのが最後、足場が悪くバックできなくなってしまった。砂利を運んできたり、フロアマットを敷いてみたりしものの、地面に穴を掘っておしまいである。万事休す。服やズボンはドロドロである。しかも友人は川に靴を埋めてしまい、左右別々の靴を履いている始末だ。苦戦すること約2時間、JAFを呼ぶ事で二人の意見はまとまった。しかしながら、山の中なので携帯電話が通じない。橋を渡れば塩原だと言う事をすっかり忘れ、沢まで歩いたが電話が見つからない。さらに国道沿いに歩いて、酒屋さんで電話を借りて、やっとJAFをよぶことが出来た。1時間程して、JAFのランクルがやってきて、ウインチで引き上げてもらった。救出料3,200円。こんなことなら、初めからJAFに頼めばよかったと思った。しかし、この苦労した経験も、いまとなっては良い思いでだと思う。大学生、最後の夏休みにしては情けない思い出だが...(笑)

 さて、この農道を真直ぐ突き進めば、沢駅に到着である。


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